庚午事変(稲田騒動)

 明治3年5月13日の早朝、徳島県知事、稲田九郎兵衛邦植とともに上京の折、蜂須賀家臣ら洲本在住の徳島藩青年武士800人、銃士100人と銃卒4個大隊、砲4門からなる部隊が、洲本下屋敷町の家老稲田邦植の別邸や益習館(稲田家の学問所)、宇山の稲田武山邸や市中の稲田家臣の屋敷を襲い、無抵抗の者を殺傷し、火を放った。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、別 邸や益習館などが焼失と多数に及んだ。この年は庚午の年であったことから、庚午事変とも呼ばれている。

 ことの起こりは、明治維新に伴なう禄制改革で稲田氏の家臣を士族とするか卒族とするかという、武士の身分問題、そして経済問題であった。

 江戸時代の淡路は、阿波の蜂須賀氏の支配下にあり、洲本には家老の稲田氏が派遣されていた。この稲田氏は単なる家老ではなく、蜂須賀氏との間には次のようないきさつがあったといわれる。蜂須賀氏の祖である小六正勝と稲田氏の祖の植元の間には義兄弟の約束が結ばれ、ともに豊臣秀吉のために戦った。蜂須賀氏が龍野5万3千石の領主になったとき、稲田氏にも河内2万石を与えようという話もあったが、稲田氏は客分として蜂須賀氏にとどまったという。このため蜂須賀氏が、阿波・淡路の領主になると、1万4千5百石という大名並みの知行地をもらい、多数の家来を抱えて、洲本城代や淡路仕置職に度々任じられた。

 稲田氏は、豊かな経済力をもち、また公卿とも縁組みをするなど、その地位 は高かった。幕末には、蜂須賀氏が公武合体派であったのに対し、稲田氏とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。このようなことから稲田氏の家臣は、蜂須賀氏の家臣から陪臣として軽蔑されながらも、一種の誇りをもっていた。

 明治政府は、明治2年に武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もこの身分に応じて減らすこととした。稲田家当主は、一等士族として最高の千石給与となったが、稲田家家臣は陪臣のため卒族にされることとなった。卒族では藩から僅かな手当てが与えられるだけなので、将来の生活に対する不安は大きかった。また、稲田家との主従関係が断ち切られることに対する不満も強かった。

 稲田家臣は、三田昂馬を中心として、士族への編入を嘆願するとともに、稲田家の分藩独立運動をおこした。

 このような稲田家の動きが、蜂須賀本藩一部の家臣の激しい怒りをかい、平瀬伊右衛門・大村純安・多田禎吾ら洲本在住の一部過激派の決起となったのである。

 阿波でもその日、本藩藩士の不穏な動きがあったので、脇町近辺在住の家臣の中には高松藩領へ逃げ込んだ者も多かった。

 この事件に対する中央政府からの処分は予想以上に厳しく、徳島藩側主謀者10人がうち首(のちに切腹)、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。

 一方、稲田家側は、10月15日、朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の静内郡と色丹島(後に返上、現北方領土)への移住開拓が申しされ、翌年日高国静内へと移っていった。今日名馬の産地として有名な静内の丘の上には開拓100年を記念して彼らの苦闘を語る大きい記念碑が建てられている。